心城院

心城院について

天台宗 柳井堂 心城院(通称・湯島聖天)

縁起

当山は元々、湯島天神の別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称されていました。ときに元禄7(1694)年、喜見院第三世・宥海大僧都が、道真公とご縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが当山の開基で、尊像は比叡山から勧請した慈覚大師円仁作と伝えられております。当時は、現在の湯島天神男坂下が湯島天神の表門にあたり、太田道灌の御殿・皓月亭跡とも伝えられています。享保のころ、寺門維持のため幕府から「富くじ」が発行されました。江戸では、谷中感応寺(現・天王寺)、目黒瀧泉寺(目黒不動)、喜見院(湯島天神)が「江戸の三富」と言われ、大いに賑わいました。

当時の喜見院はかなりの境域がありましたが、明治維新の神仏分離令で惜しくも廃寺となりました。当然、弁財天堂もその影響を受けるところでしたが、聖天さまの御加護により湯島天神との本末関係を断つのみで、奇跡的に廃仏の難を逃れました。
単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」と改めました。

当山は、開基以来幾度となく発生した江戸の大火や関東大震災、東京大空襲の戦火にも遭うことなく法灯を伝えてきました。しかし、約300年の風雪に耐えた本堂や庫裏は老朽化が甚だしくなり、近年に改修され寺観を一新しました。

作品の中の当山

泉鏡花(明治6~昭和14)は、『湯島詣』の中で、湯島天神下の一画を「かくれ里」と呼んで詳細に書いており、その中に「心城院の門も閉まって…」と夜の情景を記しています。また『婦系図』には、湯島天神でのお蔦と主税の別れの際、お蔦が天神男坂を下り、弁天様(当山)におみくじを引きに行く場面があります。

久保田万太郎(明治22~昭和38)は、天神下の情緒が好きで、わざわざ鎌倉から当山の2軒裏隣に引っ越してきました。当山に立ち寄っては「おみくじ」を引いたり、亀を見たりして一句、「きさらぎや 亀の子寺の 畳替」と詠みました。

鶯亭金升(慶応4~昭和29)は、聖天さまの信仰が篤く、当山の信者となり、
「名 残したきものぞ 月の影」「怠るな 専売は 無き人の知恵」などといった自作自彫の板碑を奉納されました。

平岩弓枝(昭和7~)の時代小説、『御宿かわせみ2』の『迷子石』の冒頭には、「湯島天神の別当寺、喜見院の境内に、奇縁氷人石というのがあった。」とあります。現在、この奇縁氷人石(迷子石)は湯島天神境内にあります。

寺宝

【聖天秘密曼荼羅(江戸時代の傑作)二幅】
うち一幅は、安政五年 京画師・森田易信作
奥付に、「實二是レ世間二甚ダ希有ノ曼荼羅也」とあります。

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